もしかして私は・・・
人の成長を手助けするのが好きなのかも・・・。人が次の世界へ旅立つのを見送る時、私の心は満たされる。
三田紀房『エンゼルバンク』第14巻
教師という仕事を長く続けてきた人ほど、この言葉に静かにうなずける
のではないでしょうか。
生徒が悩む。
失敗する。
迷う。
そこから少しずつ、自分なりの答えを見つけていく。
そして、ある日、自分の力で次の世界へ進んでいく。
その姿を間近で見ることができる。
これは、教師という仕事の大きな喜びのひとつです。
教師は、人が成長する瞬間を「特等席」で見ることのできる仕事です。
けれども最近、私はその特等席の素晴らしさと同時に、少し物足りなさも感じるようになりました。
なぜなら、学校で生徒と関われる時間は、あまりにも短いからです。
教師が見られるのは、人生のほんの一部分
高校なら3年。
中高一貫でも6年。
一人の人間がこれから80年、90年、100年と生きていくことを考えれば、学校で教師と関わる期間はほんの一瞬です。
教師は、生徒が人生の入り口に立ったところで出会い、まだ旅が始まったばかりの時点で見送ります。
卒業証書を渡す。
最後のホームルームをする。
校門から送り出す。
そして、次の年度には新しい生徒が入ってくる。
学校とは、そういう場所です。
教師は同じ場所に立ち続け、生徒が次々と通り過ぎていく。
ある意味では「定点観測」の仕事でもあります。
卒業は、人生の完成ではない
学校では、卒業が大きな区切りです。
進学した。
就職した。
志望校に合格した。
それを見ると、教師として一つの仕事を終えた気持ちになります。
けれど、生徒の人生から見れば、それはほんの始まりです。
大学へ進んでから迷う。
就職してから苦しくなる。
働き方を変えたくなる。
人間関係に悩む。
結婚する。
子どもを持つ。
転職する。
離職する。
再び学び直す。
人生には、学校卒業後のほうがはるかに多くの分岐点があります。
そして、本当に誰かに話を聞いてほしくなるのも、むしろその後かもしれません。
「進路指導」の先にあるもの
教師は、生徒の進路を支援します。
どの大学へ行くか。
どんな仕事を選ぶか。
どんな資格を取るか。
しかし、本当に大切なのは、その先です。
その選択をしたあと、どう生きていくのか。
選んだ道が合わなかったとき、どうするのか。
いったん決めたキャリアを変更してもいいのか。
失敗したあと、どう立て直すのか。
そうした問いは、進路指導室ではなかなか扱いきれません。
人生は、進路決定で終わらないからです。
むしろ、決めたあとから始まります。
これからは「マルチステージ」の人生になる
かつては、
教育を受ける。
働く。
引退する。
という比較的分かりやすい人生モデルがありました。
しかし、これからは一つの仕事を一生続けるとは限りません。
働きながら学ぶ。
別の分野へ移る。
複数の仕事を持つ。
いったん休む。
また始める。
50代、60代から新しいことを始める。
人生のステージは何度も変わります。
そういう時代に、「18歳や22歳で決めた進路」を最終回答のように扱うのは無理があります。
教師にも、卒業時点の進路だけでなく、その先の人生を見渡す視点が必要になってきます。
私がやってみたい一つ目のこと
私には、残された教員生活の中で、そしてその先で、やってみたいことがあります。
一つは、生徒との関係を「卒業」で完全に終わらせないことです。
もちろん、卒業後も教師として指導し続けたいという意味ではありません。
むしろ逆です。
教師という役割から降りたあと、一人の大人として関わってみたいのです。
かつての担任。
かつての教科担当。
そういう肩書きではなく、
「少し先を歩いている人生の先輩」
くらいの立場で。
「先生」ではなく「人生の先輩」になる
生徒が卒業すると、教師と生徒という上下関係は少しずつ薄れていきます。
それでいいと思います。
むしろ、そのほうが話せることもあります。
働いてみて、どうだった?
今、何に悩んでる?
一度辞めてもいいんじゃない?
また学び直したっていい。
先生だってまだ迷ってるよ。
そういう会話は、教室の中ではなかなかできません。
教師が「正解を教える人」ではなくなったとき、初めて成立する関係もあるはずです。
生徒が行き詰まるのは、学校の外に出てからかもしれない
学校の中では、人生のルートが比較的見えています。
次の試験。
次の学年。
進級。
受験。
卒業。
しかし、学校を出ると、突然地図がなくなります。
誰も、
「次はこれをやれば正解」
とは言ってくれません。
仕事が合わない。
職場がつらい。
やりたいことが分からない。
周囲と比較して焦る。
人生に意味を感じられない。
そんなとき、若者は初めて「自分で人生を選ぶ」ことを迫られます。
そのときに、学校時代とは違う形で話せる大人が一人いる。
それだけでも、大きな意味があるのではないでしょうか。
もう一つやりたいこと――「異世界」を見せる
私がもう一つやりたいのは、生徒が行き詰まったとき、学校の外にある「異世界」を見せることです。
学校にいる生徒にとって、学校は世界の大部分を占めます。
成績。
友人関係。
部活動。
教師との関係。
進路。
その中でうまくいかないと、
「自分の人生そのものがうまくいっていない」
と感じることがあります。
でも、実際には学校の外に出れば、価値基準は大きく変わります。
学校では評価されなかった能力が、別の場所では武器になることがあります。
学校での評価は、世界の評価ではない
テストが得意。
集団行動が得意。
先生の指示を理解するのが早い。
期限を守れる。
学校では、こうした力が評価されやすい。
しかし社会には、もっと多くの物差しがあります。
人をつなぐ。
発信する。
ものを売る。
デザインする。
文章を書く。
企画する。
交渉する。
人の相談に乗る。
仕組みをつくる。
誰もやっていないことを始める。
学校の中で目立たなかった人が、外の世界で大きく力を発揮することも珍しくありません。
だから、生徒には知ってほしい。
「今いる場所でうまくいかないこと」と、「人生がうまくいかないこと」は同じではない。
教師自身が外の世界を知らなければならない
ただし、生徒に「学校の外にも世界がある」と伝えるなら、教師自身が外の世界を知っていなければなりません。
学校からほとんど出ない。
教師同士としか話さない。
学校文化しか知らない。
それでは、生徒に見せられる世界も限られます。
「世の中にはいろいろあるよ」
と言っても、言葉だけになります。
だから私は、教師こそ学校外へ出る必要があると思っています。
学校外に出ると、教師の言葉が変わる
私自身、若い頃は学校の中の価値観を強く信じていました。
教師は正しくあるべきだ。
学校教育は特別な仕事だ。
学校の常識は、ある程度社会でも通用する。
そんな思い込みがありました。
しかし、学校以外の人と出会い、ビジネス思考を学び、さまざまなコミュニティに参加するようになると、見える景色が変わりました。
学校の常識は、社会の常識ではない。
教師の評価軸は、世の中にある無数の評価軸の一つにすぎない。
そう気づくと、生徒にかける言葉も変わります。
「この学校でダメ」から世界を広げる
たとえば、生徒が学校でうまくいかず、
「自分はダメだ」
と言ったとします。
学校の中しか知らない教師なら、
「もう少し頑張ろう」
「この環境に慣れよう」
と言うかもしれません。
でも、外の世界を知っていれば、
「この場所が合っていないだけかもしれない」
「別の場所なら、その力が評価されるかもしれない」
と伝えられます。
この違いは大きい。
教師の世界が広いほど、生徒に渡せる選択肢も増えます。
教師の越境は、生徒のためでもある
教師が学校外で学ぶことを、
「自分のキャリアのため」
だけに捉える必要はありません。
異業種の人と話す。
地域活動に参加する。
発信する。
学び直す。
副業的な活動に触れる。
オンラインコミュニティに入る。
そうした越境は、すべて生徒へ還元できます。
教師が世界を広げれば、生徒に見せられる世界も広がります。
つまり、教師自身のキャリア形成と教育は一体化されているんです。
楽しそうな大人がいることの意味
生徒にとって、大人は未来のサンプルです。
毎日疲れている。
仕事に愚痴を言う。
「社会に出たらもっと大変だぞ」と言う。
そんな大人ばかり見ていたら、大人になることを楽しみに思えるでしょうか。
反対に、
新しいことを学んでいる。
学校の外にも仲間がいる。
50代、60代になっても新しい挑戦をしている。
失敗しても面白がっている。
そんな大人を見れば、
「大人になるって、そんなに悪くないのかも」
と思える。
教師が楽しそうに生きることは、それ自体がキャリア教育になります。
「特等席」を降りる
教師は、生徒の成長を特等席で見ることができます。
それは素晴らしい仕事です。
しかし、ずっと特等席に座っていると、
「教師が見守り、生徒が育つ」
という構図から抜けられません。
いつかは、その席を降りる必要があります。
生徒と同じ大地に立つ。
教師も迷う。
教師も働き方を考える。
教師も失敗する。
教師も人生を更新する。
その姿を見せる。
そうすると、「教師と生徒」という関係から、「人生を歩く人間同士」という関係へ少しずつ変わっていきます。
卒業後まで支配しないことも大切
ここで注意したいのは、「卒業後も伴走する」と「卒業後まで教師が介入する」は違うということです。
生徒は、教師から離れて自分の人生をつくっていきます。
その自立を尊重しなければなりません。
教師の価値観を押しつける。
人生の選択に口を出し続ける。
自分を頼らせ続ける。
それでは伴走ではありません。
本当の伴走者は、必要なときにだけ現れます。
呼ばれたら話を聞く。
求められたら、自分の経験を渡す。
必要なければ、静かに離れている。
距離を保つことも、支援です。
目標は「自分がいなくても生きていけること」
教師の理想は、生徒から一生頼られ続けることではありません。
むしろ、
自分で考える。
自分で選ぶ。
困ったら助けを求める。
必要なら方向転換する。
そうやって自分で人生を歩けるようになることです。
教師がいなくても生きていける。
それが教育の成功です。
それでも人生のどこかで、
「あの先生なら何て言うだろう」
とふと思い出してもらえる。
そのくらいでいいのだと思います。
教師の言葉は、卒業後に効いてくることがある
教師をしていると、在学中には響かなかった言葉が、何年も後になって意味を持つことがあります。
当時は分からなかった。
反発していた。
聞き流していた。
でも社会に出たあと、
「あのとき先生が言っていたのは、こういうことだったのか」
と気づく。
教育とは、不思議な仕事です。
目の前ですぐ結果が出るとは限りません。
むしろ、卒業後に発芽する種を渡していることもあります。
「e leads to e」という感覚
私は、
「教育はすべてに通じ、すべては教育に通ずる(e leads to e)」
という感覚を大切にしています。
Education leads to everything.
Everything leads to education.
学校で学んだことは、学校だけで終わりません。
仕事につながる。
人間関係につながる。
家族につながる。
人生そのものにつながっていく。
同時に、教師が学校の外で経験したことも、教育へ戻ってきます。
ビジネス。
心理学。
交渉。
発信。
異業種との交流。
自分自身のキャリア。
すべてが、いつか教室で生きる。
教育は学校の中だけにあるものではないのだと思います。
教師のキャリアも「教育」に還元される
だからこそ、教師自身が学校の外にキャリアを持つことには意味があります。
発信する。
学ぶ。
違うコミュニティへ行く。
新しい役割を持つ。
退職後の仕事を考える。
それらは、教師が教育から離れることではありません。
むしろ、自分が経験した世界をまた生徒に渡す準備です。
教師という肩書きを離れても、教育は続けられます。
教壇に立たなくても、人の成長を支えることはできます。
「教師を辞めたら教育も終わり」ではない
定年退職の日。
学校の門を出る。
職員室の机がなくなる。
「先生」と呼ばれる回数も減る。
でも、それで教育者としての人生まで終わるわけではありません。
人の話を聞く。
若い人の相談に乗る。
自分の経験を言葉にする。
新しい世界へつなぐ。
挑戦する大人の姿を見せる。
それもまた教育です。
むしろ、「先生」という制度的な役割を離れたあとにできる教育もあります。
生徒と同じ「不完全な人間」として
教師をしていると、
教える側。
支える側。
導く側。
という役割が固定されます。
でも、人間として見れば、教師も生徒も同じです。
教師も未来を知りません。
教師も迷います。
失敗します。
キャリアに悩みます。
人間関係に苦しみます。
それでも考え、学び、前へ進む。
その姿を見せることが、年齢を超えた教育になります。
教育の最終形は「関係」なのかもしれない
授業は終わります。
卒業式も終わります。
教科書の内容も、やがて忘れます。
でも、人との関係の中で受け取ったものは、意外と長く残ります。
自分を信じてもらった。
話を聞いてもらった。
失敗しても大丈夫だと言われた。
違う世界があると教えてもらった。
そんな記憶は、その人の人生のどこかで再び力になることがあります。
だから教育の最終形は、知識ではなく関係なのかもしれません。
「人が次の世界へ旅立つ」のを見送り続ける
最初の言葉に戻ります。
もしかして私は・・・
人の成長を手助けするのが好きなのかも・・・。人が次の世界へ旅立つのを見送る時、私の心は満たされる。
教師は、人を送り出す仕事です。
進級。
卒業。
進学。
就職。
そのたびに、目の前から人がいなくなります。
少し寂しい。
でも、それでいい。
むしろ、自分のもとから離れていけることが成長です。
そして、もし人生のどこかで道に迷ったとき、
「少し話を聞いてもらおうかな」
と思い出してもらえる。
あるいは思い出されなくても、かつて交わした言葉がその人の中に残っている。
そんな存在であれたら十分です。
卒業は、関係の終わりではなく、形が変わる瞬間
私は、教師として生徒をずっと導きたいわけではありません。
卒業したら、教師という役割は少しずつ終わっていく。
それでいい。
その代わり、一人の人生の先輩として、必要なときに並んで歩ける。
学校で行き詰まっているなら、外の世界を見せる。
社会で迷っているなら、少し先を歩いた経験を話す。
そして、本人がまた自分の足で歩き始めたら、見送る。
人を依存させるのではなく、人が次の世界へ旅立てるように支える。
それが、私がこれからやってみたい教育です。
卒業式が終わっても。
教壇を降りても。
「先生」と呼ばれなくなっても。
人の成長を願い、必要なときに世界を広げる手助けをすることはできる。
Education leads to everything.
Everything leads to education.
教師人生のその先にも、教育は続いていく。
私は、そんな生き方をしてみたいと思っています。



