本当のニーズを聞く覚悟はあるか
正しさを押しつける指導から、未来をつくる対話へ
本当のニーズが分かることで落としどころも見えてくる、というのが理想型ですよね。
小泉道子/「家族のためのADRセンター」センター長
2025年7月24日(木)朝日新聞『耕論』「落としどころ」を探る
この言葉を聞いたとき、学校現場に足りないものが、かなり端的に表されているように感じました。
学校では、問題が起きるとすぐに「誰が正しいのか」を確かめようとします。
なぜ提出しなかったのか。
なぜ時間を守らなかったのか。
なぜ指示に従わなかったのか。
なぜ保護者は学校の方針を理解してくれないのか。
教師は説明し、生徒や保護者はそれに答える。
ときには反論し、また教師が説明する。
こうして会話は続いていきます。
しかし、そのやり取りの多くは、「過去に何が起きたか」「誰に責任があるか」「どちらの言い分が正しいか」に向かっています。
では、「これからどうしたいのか」は、どれほど話されているでしょうか。
教育が未来をつくる営みであるなら、本当に必要なのは、過去の正しさを証明することではありません。
相手の言葉の奥にある「本当のニーズ」を聞くことです。
学校はいつから「正しさを証明する場所」になったのか
学校では、教師が指導する側、生徒が指導される側という構図があります。
教師はルールを説明する。
生徒は守る。
守れなければ理由を聞かれる。
必要なら注意や指導を受ける。
もちろん、学校という集団を維持するために一定のルールは必要です。
問題は、そのルールを守らせることが目的になったときです。
たとえば、生徒が課題を提出しなかった。
教師は聞きます。
「なぜ出さなかったの?」
生徒が答えます。
「忘れました」
すると、
「期限は伝えたよね」
「何度も言ったよね」
「社会に出たら通用しないよ」
と話が進んでいくことがあります。
ここで明らかになっているのは、「提出しなかった生徒に非がある」という事実です。
しかし、本当に知りたいのはそこだけでしょうか。
「なぜ?」が尋問になるとき
教師はよく「なぜ?」と聞きます。
なぜ遅刻したのか。
なぜ宿題をしなかったのか。
なぜ友達にそんなことを言ったのか。
一見すると、理由を理解しようとしているように見えます。
けれども、教師の中ですでに答えが決まっていると、この「なぜ?」は質問ではなく尋問になります。
「理由を聞かせて」ではなく、
「自分の非を認めなさい」
というメッセージに変わってしまうからです。
生徒は敏感です。
本当に話を聞いてもらえるのか。
それとも、最終的には説教されるのか。
すぐに見抜きます。
教師が正しさの証明を目的にしている限り、生徒は本当のことを話しにくくなります。
行動の奥には、ニーズがある
表面に見える行動と、その人が本当に求めていることは、必ずしも同じではありません。
課題を出さない。
授業中に寝る。
遅刻する。
教師に反発する。
保護者が強く抗議する。
これらは、目に見える「行動」や「主張」です。
しかし、その奥には別のものがあるかもしれません。
課題を提出しなかった生徒は、単に怠けているのではなく、量が多すぎて手をつけられなかったのかもしれない。
自分のペースで学びたいのかもしれない。
何度やってもうまくいかず、失敗するのが怖くなっているのかもしれない。
遅刻する生徒には、家庭の事情があるかもしれない。
眠れない夜が続いているのかもしれない。
保護者の強い言葉の裏には、「このまま子どもが学校で居場所を失うのではないか」という不安があるかもしれません。
人は、ニーズそのものを口にできるとは限りません。
だからこそ、表面の言葉だけで判断しないことが必要です。
「主張」と「ニーズ」は同じではない
対立が激しくなると、双方の主張は強くなります。
生徒は、
「絶対にやりたくない」
と言う。
教師は、
「ルールだからやりなさい」
と言う。
保護者は、
「学校の対応を変えてほしい」
と言う。
学校は、
「方針として変更できません」
と答える。
この段階では、互いの主張はぶつかっています。
しかし、主張の奥にあるニーズまで下りていくと、見える景色が変わります。
生徒の「やりたくない」の奥には、
「失敗して恥をかきたくない」
があるかもしれません。
教師の「ルールだから」の奥には、
「公平性を保ちたい」
という願いがあるかもしれません。
保護者の「対応を変えてほしい」の奥には、
「子どもを安心して学校に通わせたい」
という願いがあるかもしれません。
学校の「変更できない」の奥には、
「ほかの生徒との整合性を保ちたい」
という事情があるかもしれません。
主張同士は対立していても、ニーズ同士には接点が見つかることがあります。
「落としどころ」は妥協とは違う
「落としどころ」という言葉には、ときどき「お互い少しずつ我慢する」という印象があります。
しかし、本当の意味での落としどころは、単なる妥協ではないはずです。
双方が「これなら進める」と思える未来を探すことです。
そのためには、先に本当のニーズを確認する必要があります。
何を守りたいのか。
何が不安なのか。
何があれば安心できるのか。
これだけは譲れないものは何か。
逆に、変えてもよい部分はどこか。
そこまで話せると、「勝つか負けるか」ではない第三の選択肢が生まれることがあります。
ADRから学校が学べること
ADRという考え方に私が惹かれるのは、「誰が正しいか」を争うことだけではなく、これから先をどうするかという視点に重心を置いている点です。
元記事には、次の言葉があります。
訴訟では、過去の自分の正当性を証明することが多いのに対し、ADRは、これからの未来をより良くすることを大事にします。自分の主張を通すより、どうしたらこの課題を、相手にとってもメリットがある魅力的な形で解決できるかを考えます。
この姿勢は、教育現場にもそのまま生かせます。
学校では、問題が起きたあとに「誰が悪かったか」に時間を使いすぎることがあります。
もちろん、事実確認は必要です。
責任の所在を明らかにしなければならない場面もあります。
しかし、教育の目的は判決を出すことではありません。
その人が次にどう生きるかを支えることです。
過去を裁くより、次の一歩をつくる
生徒がルールを破った。
その事実は変わりません。
では、そのあと何をするか。
謝罪だけで終わるのか。
反省文を書かせるのか。
罰を与えるのか。
それとも、
次に同じことが起きそうになったとき、どうするのか。
誰に助けを求めるのか。
どのような環境ならうまくいくのか。
何があれば本人は選択を変えられるのか。
そこまで一緒に考えるのか。
後者のほうが、はるかに教育的です。
教師は裁判官ではありません。
生徒の未来を一緒につくる伴走者であるはずです。
「わかりあえない」ことから始める
教育には、「話せばわかる」という理想があります。
丁寧に説明すれば、生徒は理解してくれる。
きちんと話せば、保護者も納得する。
本音で話せば、同僚とも分かり合える。
しかし、現実はそんなに単純ではありません。
人は、それぞれ違う経験を持っています。
価値観も違います。
大切にしているものも違います。
同じ言葉を聞いても、受け取り方は違います。
だから、完全に分かり合うことを前提にしないほうがよいのです。
「分からない」という状態に耐える。
すぐに結論を出さない。
相手を分類しない。
「この人はこういう人だ」と決めつけない。
そこから対話が始まります。
教師には「わからなさにとどまる力」が必要
教師は、すぐに答えを出すことを求められます。
トラブルが起きれば判断する。
生徒から聞かれれば答える。
保護者から要望があれば対応を示す。
管理職から報告を求められれば、状況を整理する。
そのため、教師は「わからない」状態を不快に感じやすくなります。
しかし、人間関係の問題では、すぐに答えが出ないことのほうが普通です。
なぜこの生徒は反発するのか。
なぜこの保護者はここまで怒っているのか。
なぜこの同僚とは話が噛み合わないのか。
簡単には分かりません。
だからこそ、
「まだ分からない」
「もう少し聞いてみよう」
と保留できる力が必要です。
答えを急がないことは、無責任ではありません。
相手を雑に理解しないための誠実さです。
「説得する」から「聞く」へ
対立が起きたとき、教師は説得しようとします。
学校にはこういう事情があります。
このルールには意味があります。
ほかの生徒との公平性があります。
あなたにも理解してほしい。
しかし、相手も同じことを考えています。
自分の事情を分かってほしい。
自分の不安を理解してほしい。
子どものことを見てほしい。
だから、互いに説明ばかりすると、会話はすれ違います。
必要なのは、説明の前に聞くことです。
「一番困っているのは何ですか」
「どうなれば少し安心できますか」
「何を一番心配していますか」
「本当はどうしたいですか」
こうした問いによって、相手の主張の奥にあるニーズが見えてきます。
本当のニーズを聞くのは怖い
ただし、本当のニーズを聞くことには覚悟がいります。
なぜなら、聞いてしまえば、こちらも変わらなければならない可能性があるからです。
教師が最初から、
「ルールは変えられない」
「こちらに問題はない」
「生徒が変わるべきだ」
と考えているなら、本当のニーズを聞く意味はありません。
聞いているようで、結論は決まっているからです。
対話とは、相手に変わってもらうための技術ではありません。
自分の考えも変わる可能性を引き受けることです。
そこに、教師側の覚悟が必要です。
保護者対応にも「ニーズ」の視点を
保護者との対立でも同じです。
学校に強く要求してくる保護者を見て、
「要求が多い」
「学校に任せてくれない」
「無理を言っている」
と評価するのは簡単です。
しかし、少し深く聞くと、
子どもが学校で傷つくのが怖い。
以前の対応で不信感を持っている。
進路に不安がある。
子ども本人が何も話さないので、学校の様子が見えない。
そうしたニーズが隠れていることがあります。
そのニーズが分かれば、要求をすべて受け入れなくても、別の対応策を考えられます。
人は、自分の主張が通ったときだけ納得するわけではありません。
「自分が何を心配しているのかを理解してもらえた」と感じることでも、関係は変わります。
教師同士の対立にも同じことが起きている
この視点は、生徒や保護者との関係だけではありません。
教師同士でも使えます。
「もっと仕事を分担してほしい」
「これ以上はできない」
「若手が積極的に動くべきだ」
「管理職が決めてほしい」
表面的には意見の対立です。
しかし、その奥には、
負担を公平にしたい。
自分だけが抱えたくない。
経験を尊重してほしい。
安心して働きたい。
裁量を持ちたい。
そうしたニーズがあります。
ここまで見えると、「あの人は非協力的だ」という人物評価から離れられます。
問題を、人ではなく、解決すべきテーマとして扱えるようになります。
対立を「協働のテーマ」に変える
本当のニーズが見えると、対立の形が変わります。
「あなた対私」だったものが、
「私たち対この問題」
になります。
これは大きな違いです。
相手を倒す必要がなくなるからです。
たとえば、
「課題を必ず期限内に提出させたい教師」
と
「自分のペースで取り組みたい生徒」
が対立しているとします。
教師のニーズが「学習状況を把握したい」であり、生徒のニーズが「自分のペースを守りたい」なら、
提出期限を細かく分ける。
途中経過だけ提出する。
別の方法で学習状況を確認する。
といった第三の案が生まれるかもしれません。
主張だけを見ていれば、どちらかが折れるしかありません。
ニーズを見ると、選択肢が増えます。
教育は「勝ち負け」を決める仕事ではない
教師が正しい。
生徒が間違っている。
学校が正しい。
保護者が間違っている。
この構図は、一時的には問題を処理できます。
しかし、関係性には傷が残ります。
相手が納得していないまま従えば、次の対立が生まれます。
教育は勝ち負けを決める仕事ではありません。
相手と一緒に、次の一歩をつくる仕事です。
だからこそ、教師には正しさよりも、対話を続けられる力が必要です。
「話せばわかる」ではない
私は、次の言葉を大切にしたいと思います。
「話せばわかる」ではない。
「話さなければ、ますますわからない」のだ。
対話しても、最後まで意見が一致しないことはあります。
理解できない部分が残ることもあります。
それでも、話す。
聞く。
問い直す。
互いに譲れないものを確かめる。
全部分かり合えなくても、「ここからどうするか」を一緒に考える。
それが、現実的な対話です。
教育を「未来をつくる営み」に戻す
教育は本来、未来志向の営みです。
昨日できなかったことを、明日はできるようにする。
今は見えていない可能性を、一緒に探す。
過去の失敗を、未来の選択につなげる。
そうした仕事です。
にもかかわらず、学校が過去の正当性ばかりを証明する場所になれば、教育は裁判に近づいていきます。
誰が悪い。
誰がルールを破った。
誰が責任を取るべきか。
それだけでは未来はつくれません。
必要なのは、
「では、ここからどうするか」
という問いです。
本当のニーズを聞く覚悟はあるか
教師が生徒のニーズを聞く。
保護者のニーズを聞く。
同僚のニーズを聞く。
言葉にすると簡単です。
しかし、本当に聞くためには、こちら側の正しさを一度脇に置かなければなりません。
相手の話を聞いた結果、自分の考えが変わるかもしれない。
学校のルールを見直す必要が出るかもしれない。
教師側にも改善点が見つかるかもしれない。
それでも聞く。
そこに、対話の覚悟があります。
教育を「指導」だけで終わらせず、「共創」に変えるためには、その覚悟が必要です。
問い詰める前に聞く。
説得する前に聞く。
裁く前に聞く。
「あなたは、本当はどうしたいの?」
その問いを持てる教師が増えたとき、学校は少しずつ「正しさを証明する場所」から「未来をつくる場所」へ変わっていくのだと思います。




教育への漠然とした思いをすべて言語化してくださっているようで、大変納得しました。ありがとうございます!
(私は大学時代、小学校教育課程で学んでいました😃)
まるごと先生はじめまして!
仕事でも子育てでも、ドキッとする場面がありそうです。
すぐ正解を出すより、「本当はどうしたい?」って聞いてみようって思いました。